令和3年夏 花火入門
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6 花火の流行は江戸庶民の遊びにも広がり、市中での「花火売り」や「花火師」も登場します。 しかし、この流行とともに花火が原因による火災が多発したことから、幕府より江戸市中での花火禁止に関する「町触れ」が出され、花火を行ってよい場所も大川端(隅田川河口付近)での船上花火に制限されることとなりましたが、花火の流行は止まらず、以後このようなお触れが毎年出される結果となります。 当時の隅田川では、特に繁華街がある河口部で花火が行われていましたが、17世紀の両国橋架橋により両国橋周辺が花火の名所となりました。 18世紀には船遊びで花火を楽しむ文化が定着し、19世紀には花火の技術も発達し、川開きの行事として数々の浮世絵にも登場することとなります。 このころ活躍した花火師が、有名な鍵屋弥兵衛や玉屋市郎兵衛で、今でも屋号が打揚花火の掛け声の定番となっています。 この「両国川開き花火」は19世紀に大きく発展し、江戸の年中行事となったことから、夏の花火大会のルーツといえます。 花火を行ったり、楽しんだりする風習は、江戸だけではなく全国各地にあり、現在も伝統行事として続いているものも多く、これらの地域では祭礼のときに、火薬の知識のある地元の人たちにより「立火たちび」(噴出花火)や「流星りゅうせいまたは龍勢りゅうせい」(ロケット式花火)など様々な花火がつくられ奉納されてきました。 特に、愛知県三河地区は徳川家康のお膝元で、直属の火薬製造所があり鉄砲隊の本拠地であったことから花火が盛んな土地柄で、現在でもおもちゃ花火の製造や販売業者が特に集中し、日本全国の流通起点となっています。 東都両国夕涼之図(資料提供:両国花火資料館)

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